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大阪地方裁判所 平成12年(わ)1753号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一本件公訴事実と争点

本件公訴事実は、「被告人は、平成一二年三月二三日午前八時二〇分ころから同日午前八時三一分ころまでの間、大阪府豊中市本町《番地省略》阪急電鉄株式会社豊中駅を出発し、大阪市淀川区十三東《番地省略》同十三駅までに至る同雲雀丘花屋敷駅発梅田行き急行電車内において、乗客のA子(当時一七歳)に対し、手を同女のパンティー内に差し入れて臀部をなで、手指で同女の肛門を触り、更に手で同女の乳房を着衣の上からもみ、もって、強いてわいせつな行為をしたものである。」というものである。

弁護人は、右公訴事実につき、被告人がかかるわいせつ行為をしておらず、わいせつ犯人と誤認されたものであるから、無罪である旨主張し、被告人も、捜査及び公判を通じてこれに沿う供述をする。

そこで、関係証拠(以下、証拠書類については、適宜、検察官及び弁護人請求の証拠番号を括弧内に引用して示すこととするが、検察官請求証拠を甲乙の算用数字により、弁護人請求証拠を弁の算用数字により示すこととする。)を精査の上、被告人が本件強制わいせつ行為をなしたか否か(被告人と犯人との同一性)を判断することとする。なお、本件は、大変混雑していた満員電車内での強制わいせつ(痴漢)事件で、通常の事件よりは人違いによる誤認逮捕のおそれがある事件であるところ、被告人と犯人を結びつける直接的な証拠が本件被害者であるA子の供述しかなく、同女の供述の信用性に対する評価が被告人の有罪・無罪の結論を左右するのはいうまでもない。

第二当裁判所の判断

一  本件前後の被告人の行動等(概ね争いのない事実)

1  A子供述の信用性の検討に入る前提として、被告人の本件前後の行動等についてみるに、関係各証拠(被告人の公判供述、被告人の警察官調書〈乙1ないし3、7〉、A子及びBの各公判供述、捜査報告書〈甲10、11、16、17、24〉、写真撮影報告書〈甲4、12、13〉並びに押収してある紺色のブルゾンコート〈平成一二年押第四六一号の1〉及び赤色デイパック〈同号の2〉)によれば、次の事実が認められる。

(一) 被告人は、大阪市西区新町にあるA野専門学校(最寄り駅は地下鉄四ツ橋線四ツ橋駅又は御堂筋線心斎橋駅である。)にタレントデビュー科の教諭兼演出及び教務として勤務し、自宅の最寄り駅である阪急電鉄株式会社石橋駅(以下、阪急電鉄株式会社の駅名を表示する場合には、駅名のみを表示することとする。)から阪急電車に乗車し、梅田駅で地下鉄に乗り換えて通勤していたが、本件当日である平成一二年三月二三日は、専門学校が春休み期間中(三月一日から)であったことから、始業時刻が午前九時三〇分と通常より四〇分遅くなっていた。なお、被告人は、春休み期間中、午前八時ころに自宅を出発し、石橋駅発午前八時一五分発の急行電車(急ぎのときは同駅午前八時八分発の特急電車も利用していた。)に乗ることにしていた。

被告人は、本件当日も午前八時ころ自宅を出発し、徒歩で石橋駅に向かい、いつも乗る電車より一本早い同駅午前八時一〇分発の通勤急行電車に乗車したが、途中、豊中駅で降り(午前八時一五分着)、同駅始発の普通電車をやり過ごした後、続発の同駅八時二〇分発の急行電車(通常被告人が利用していた電車。以下、「本件電車」ともいう。)に先頭車両(梅田寄り)の右側真ん中ドアから乗り込んだ。本件電車の車内は、相当混雑しており、身動きのとれない状態で、とりわけ、被告人が乗車した車両は梅田駅で地下鉄等への乗換えが便利であることもあり、混雑が激しかった。なお、前記通勤急行電車は、梅田駅に午前八時三四分に、本件電車は、同駅にその二分後にそれぞれ到着する予定となっていた。

ところで、被告人は、身長が約一八三センチの大柄の男性であるが、本件当時、紺色スーツ上下の上に、紺色のブルゾンコート(平成一二年押第四六一号の1、以下、単に「ブルゾンコート」ともいう。)を着用し、赤色デイパック(同号の2)を所持していた。なお、ブルゾンコートは、紺色のナイロン生地でできており、襟のところが赤く、左そでに赤色で比較的大きな「USK」の文字が書かれているなどの特徴があり、サラリーマン等が着用する上着としては、比較的目立ちやすいものであった。

(二) A子は、当時、私立B山高等学校(現学校名・C川学園高等学校)に通う高校二年生で、豊中駅から十三駅まで阪急電車を利用しており、本件当日(三月二三日)は、春休み中だったが、学校に用事があり、通常乗る電車より遅い豊中駅午前八時二〇分発の本件電車に先頭車両の右側真ん中のドアから乗り込んだ。

A子は、豊中駅で乗車後、十三駅に着くまでの間に、手をパンティー内に差し入れられて臀部をなでられた上、手指で同女の肛門を触わられ、更に手で同女の乳房を着衣の上からもまれるなどのわいせつ行為(公訴事実記載の痴漢行為)をされるという被害を受けた。

なお、A子は、身長が約一六五センチメートルで、体格も女性としてはやや大柄の部類に属しているが、豊中駅で本件電車に乗り込むとき、高校の制服である白ブラウスの上から白のセーターを着て薄茶色チェックのマフラーを巻き、下は緑色のチェックのスカートを履き、あずき色のビニールのショルダーバッグを右肩から左腰に向けてたすき掛けにし、更に両耳にCDヘッドホンステレオのイヤホンをつけていた。

(三) A子は、前記痴漢行為に耐えきれず、本件電車が十三駅に着いたら痴漢の犯人を捕まえようと意を決し、同日午前八時三一分ころ、本件電車が十三駅(四番線)に到着したとき、痴漢(本件強制わいせつ)の犯人と思った男の手をつかんで捕まえたところ、この手は被告人のものであった。A子に手を捕まれた被告人は、「俺じゃない。」などと告げたが、二人で本件電車から降りることになり、同駅のホームで、A子が「この人痴漢です。」などと言って駅員を呼び、これに対し、被告人がA子に対し、「僕、隣にいた人じゃないか。」などと弁明するなどして言い合いとなった。そして、周囲に人だかりができたこともあり、被告人は、電車の来ていなかったホームの反対側(五番線)に足早に去っていこうとしたところ、案内係(C及びD)が被告人の両腕をつかんで押さえ、A子に確認を求めた後、被告人とA子を十三駅のサービスセンターに連れていった。

2  以上の認定事実に加え、後記三、2で検討するように、被告人の行動に関する説明も十分説得的なものとまでいえないこと等にかんがみると、被告人が取った前記行動は、被告人を本件強制わいせつの犯人と仮定した場合、流れとして自然なものと考えられることもでき、被告人が本件強制わいせつの犯人と疑われるのも無理もないところである。

しかしながら、被告人は、捜査段階から一貫して人違いであると強く主張しており、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則にかんがみるならば、被告人に右のような不自然・不合理と評価可能な行動を取ったことを過大に評価するのは相当ではなく、人違いの可能性(合理的疑いを入れる余地)がないかを本件各関係証拠を十分精査して徹底的に検討しなければならない。とりわけ、本件のように、満員電車内での犯行であって、通常の事件よりは無垢の一般市民を誤認逮捕するおそれのある事件で、しかも、被告人と犯人とを結びつける直接的な証拠が被害者の供述のみである場合には、被害者の供述の信用性を相当詳細かつ多角的に分析検討する必要があり、被害者の供述が、厳格な審査に耐え、社会通念に照らし、被害者において人違いをした可能性がないといえるほどに高度の信用性を有するものでなければならない。

二  A子の供述の信用性

そこで、本件被害者であるA子の供述の信用性を検討することとする。

1  供述の要旨

(1) 捜査段階における供述の要旨

ア 警察官に対する供述の要旨(平成一二年三月二三日付警察官調書〈甲26〉。なお、同日実施された実況見分におけるA子の指示説明〈甲5〉も〔〕内に併記する。)

A子は、前から二両目の右側真ん中のドアから乗車したが、ぎゅうぎゅう詰めの状態で、CDヘッドホンステレオのイヤホンが外れてしまい、つけようにも身動きが取れなかったところ、本件電車が豊中駅を発車した直後、右足の太股の付け根を手で触られる感じがしたが、後ろを振り返って見ることもできず、できる限り身体をよじりその手から離れようと努力した。次に、犯人は、右太股付け根のパンツのゴムの中から手を入れ、直接おしりの右側をなで始め、そして、おしりの割れ目に沿うようにして入ってきて肛門あたりに指を沿わし、手を上下に動かして触り続け、そのまま性器の方に沿わしてきた。A子は、必死で腰を前の背の低いおばさんの方に押しつけていたとき、電車がガタンと揺れ、左側に移動したが、その瞬間、犯人の手もパンツの中から抜けた。ところが、犯人も左側にずれたようで、すぐに今度は、A子の後ろの方からスカートをめくり上げ、パンツを引き上げておしりの割れ目に食い込ませ、そして、パンツからはみ出たおしりの右側をなで始め、肛門を指で触った。A子は、「もう我慢できない、許されない。」と考え、犯人の手をつかもうと思い胸の前にかかえていた手を下に下ろそうと努力した。その間、犯人は、どんどんエスカレートしてきて、A子のおしりの穴を触りながら、左手をA子の下ろした左腕の上から回してきて、性器を触るかのように前の方に持ってきた。このとき、その犯人の左腕を見て、紺色のビニール地のブルゾンコート(A子は、これを「ジャンパー」とも供述していた。)に赤い字のアルファベットで何かが書いてあったのが見えた。犯人は、性器の方に手が届かなかったのか、あきらめて左腕をA子の左胸に持ってきて手でもみ始めた〔実況見分〈甲5〉の際、この時点では、犯人の着ている服が紺色に赤い色のアルファベットで何か書いてあるのが見えた旨説明し、犯人の位置についてA子の左斜め後ろを指示した。〕。その間、A子の胸をもんでいる犯人の手と反対の右手は、A子の食い込んだパンツの中に指を入れ、おしりの穴を触っていた。A子がしていた左耳のイヤホンが取れていたので、このころから犯人の「はあはあ」という息づかいが聞こえた。その後、犯人は、左手もA子の左側のおしりを触りだし、つまり両手でおしりをなで始めた。A子の我慢も限界に達し、本件電車が十三駅で犯人を捕まえようと決心し、同駅に到着した瞬間、A子は、おしりの左側をなでていたブルゾンコートの左腕の手の甲を左手でつかみ〔実況見分〈甲5〉の際、A子は、電車が十三駅に着いたときに犯人を捕まえようと思い、胸を触っていた左手の甲を左手でつかんで駅員に知らせた旨説明し、犯人の手をつかんだ位置につき、A子の左側面の腰部ないし腹部付近を指示している。〕、このとき、犯人が身長一八〇センチメートルくらいある背の高い男で、紺色のブルゾンコートの前のチャックの部分が赤色だったことがわかった。男はA子が手をつかむと、無言で手を振り払った。A子は、犯人に「電車から降りろ。」と言うと、男は、いきなり「俺じゃない。」と答え、さらに、A子が男に「とにかく電車から降りて」と言って電車から降ろし、近くにいた駅員に「この男、痴漢です。」と言って、犯人の男と一緒に駅長室まで行った。

犯人の服装については、A子は、紺色のブルゾンコートというのが印象に強くて、中のスーツ等については覚えていないが、顔の全体の雰囲気が絶対にA子にいやらしいことをしていた犯人に間違いない。

イ 検察官に対する供述の要旨(甲31、32)

A子が犯人から受けたわいせつ行為の内容については、ほぼ警察官に対する供述と同旨である。ただ、本件電車がガタンと揺れて少し移動した直後のわいせつ行為につき、平成一二年三月三〇日付検察官調書(甲31)では肛門まで指を差し入れてきたと供述したが、同年四月一一日付検察官調書(甲32)では肛門をなでたとの趣旨の記載となっている。

本件電車がガタンと揺れたとき、犯人は揺られ方が大きかったのか若干A子より左側に出る形で動き、それでA子は、少しだけ顔を左側に傾けて、左後方を見たところ、その男の着ているものが少しだけ見えた。左腕とわかった二の腕の部分に赤でアルファベット三文字がししゅうしてあり、そのうち一文字が五センチメートル×五センチメートルの大きさで、Uの文字が入っているのが見え、また、襟元が赤いのも目に入った〔ちなみに、これらの点は、三月三〇日の段階では供述していなかった。〕。その直後におしりを触られるなどしたが、その後、A子が犯人の手をつかんでやろうと思い、左腕を下ろそうとしたところ、犯人がA子の下ろした左腕の上からA子の性器を触ろうとしてきたとき、再び左腕のアルファベットの文字を見た〔なお、三月三〇日付検察官調書では、この時点で初めて、前にのびてきた左腕のそでが紺色のビニール地のブルゾンコートに赤い字のアルファベットで何かが書いてあるのが見えたなどと犯人の服装について供述している。〕。A子は、犯人から胸を触られるなどのわいせつ行為をされたが、犯人を捕まえようと決心し、本件電車が十三駅に着いたとき、犯人が右手でおしりをなでるとともに、乳房をもんでいた左手を下の方に下げてきている途中だったところ、A子は、いったんその左手の甲を左手で強くつかんだが、振り払われてしまい、もうこの時点ではドアが開いて人が徐々に降りており、車内に空間ができ始めていたときだったため、振り払った手の行き先を自分の目で追うことができ、左側に身体を回転させると引っ込んでいった手のついている男が被告人であった。それで、A子は、再度その男の手を取って引っ張って、近くの駅員に痴漢の申告をした。なお、A子は、振り払われた後、手を再度握って引っ張ったとき、「とりあえず出ろ。」と言ったのに対し、その男は、「俺じゃない。」という意味のことを言った。

(2) 公判供述の要旨(主として主尋問での供述内容を掲げることとし、〔〕内に反対尋問及び補充尋問における供述内容を付記する。)

A子は、平成一二年三月二三日、学校に通知簿等を取りにいくため、豊中駅発午前八時二〇分発の本件電車に、先頭車両の真ん中ドアから乗車し、入ってすぐの座席前くらいの進行方向に向かって立っていたところ、電車が動き出したあたりから、右太股の後ろの方をさすって上に上げるように触られ、パンツの中に手を入れられなでられ、触られているのが分かったからとりあえず逃げようと思い、前の人に寄り掛かったり腰を引いたりして周囲の人に知らせようとしたが、なおも、おしりの割れ目に沿って性器に向かい指をはわせられ、肛門が触れこすれるようになり、逃げようと前に腰を持っていったりしたが、逃げることができなかった。豊中駅を出発して約五分後、ガタンと大きな揺れがあり、一歩ほど移動したところ、犯人の手が離れ、左横に紺色のブルゾンコートを着ている男の肩や腕が自分の肩の上のところから出てきて、そのブルゾンコートの腕の部分にあるアルファベット三文字のうちUの文字が見えた〔さらに、主尋問の中でも、「ちゃんと見れてなかったんですけど、しばらくして、左のとこにある手で胸をもまれたんで、そのときに出てて、それで見えたんですけれども。」と不明確となり、反対尋問では、「多分動いたときに見えたのが一番記憶が強いので」と述べたが、また補充尋問に至ると、主尋問でも反対尋問でも説明のなかったブルゾンコートの赤い襟は見えたとするも、その時点でアルファベットの文字が見えたかにつき、「いまいちちゃんとしないから」、「自信ないです。」と述べる一方、胸を触られるに至った段階でアルファベットの文字が見えたか尋ねられると、「そのときは目に入らなかった。」と述べ、結局、いずれかの段階でアルファベットの文字を見たとは断言できなかった。〕。その後、犯人が真後ろより少しだけ左で、相手の腕や肩が見えるくらいまで前に出ている状態にあり、右手でパンツを食い込むように上げられ、出ている臀部を触られ肛門のあたりをパンツの上からさすった。さらに、犯人は、左手で着衣の上からでも痛いと感じるくらい強く胸をもみ、腹部をはうように伝って下の方を触ろうとしたができずに上に上がってきて胸をもむことを二、三回繰り返し、その間中、犯人の紺色のブルゾンコートの腕の部分が目に入ったが、ブルゾンコートの腕にししゅうしてあるアルファベットの文字が何回か見え〔反対尋問では、「見えたと思うんですけど」、「分からない、多分その動いたときに見えたのが一番記憶が強いので」と後退させ、補充尋問では、前記のとおり、「そのときは(目に)入らなかった。」と述べた。〕、その間、「はあはあ」という息づかいが聞こえた。A子は、犯人を十三駅で降ろして捕まえようと決意し、本件電車が止まった瞬間ないし直後くらいに腹部よりやや下(身体の前部)にあった、犯人の左手の手首よりちょっと手の甲の部分をつかんだが払われ、その手を目で追いながら振り向き、いったんつかんだ位置から約二〇ないし三〇センチメートルくらい引いた位置の手を確認してつかみ、その男(被告人)に面と向かって「降りてください。」と言ったところ(そのころは本件電車のドアは既に開いていた。)、被告人が「俺じゃない。」と言ったが、被告人を降ろし、ホームにいた乗車整理員に「この人痴漢です。」と言ったところ、被告人は、「僕、隣にいた人じゃないか。」と弁解した。なお、A子は、被告人を捕まえて正対したとき、被告人の服装を間近に見、被告人の着ていたブルゾンコートの特徴(コートの色、襟の色、左そでのアルファベットの文字の存在等)がはっきりわかった。

2  信用性の検討

(一) 検討の視点(総体的評価)

A子は、被告人とは全く面識がなかったとはいえ、直接の被害者で、かつ被告人を本件強制わいせつの犯人として駅員に突き出した人物であるが、被告人を犯人と誤認したということになれば、A子自身が何らかの非難を受けるおそれがあると思い、少しでも自分が被告人を犯人とした判断を正当化しようという心理が働き、自分に有利に(被告人を犯人とする方向に)供述する可能性が十分に考えられるところであるが、A子は、公判供述一つをとっても、同一の期日に尋問されたにもかかわらず、質問者ごとに供述を変遷させるなど、記憶の不明確さや混乱がうかがわれ、しかも、やや無責任かつ投げやりな供述態度(長時間にわたって尋問がなされ、疲れて辟易とした面があるとはいえ、自分に気に入らない質問を受けたときに「気分が悪い。」と言い出したり、証言台に突っ伏して不快な感情をあらわにしたりした場面があった。)も見受けられたことも併せ考えると、A子供述の信用性については慎重に吟味しなければならない。

殊に、A子は、弁護人の反対尋問の最中に、十三駅のアルバイトが痴漢にあったことを確認したという内容に関し、「あんまり覚えてないんですけど。取りあえずその人とずっとしゃべってたから、その後連れていかれるときにしゃべってて、隣にいた人っていうのがなんでわかるんやって。例えばその人、犯人だと思われている人が痴漢じゃなかったんやったら、隣にいるってことは、うちのことを確認できているわけじゃないですか。ってことは、じゃあうちがされている行為も実は見えてたんだったら、助けてほしいなと思ったのがあって、そのときは結構あいまいだったから、でも手つかんでるからこの人だと思ったんですけど、でもどっちにしろ、やってるやってないに関わらず、例えばの話ですよ、むかつくとか思ったんですよ。それをその駅員のE君に、そうだよねっていう話はしてたんです。それしか覚えていないです。」などと独り言のように供述し、被告人を犯人と特定した根拠が必ずしも明確でないことを示唆したにとどまらず、胸部を触られていた手を直接つかんだ旨警察官に述べたとしながらも、警察官調書(甲26)にはその旨の記載がない理由を尋ねられた際には、「いや、っていうか話もしたんですよ。それは絶対、間違いなくその手を取ったんだねという話になって、はい、取りましたって言ったんです。取ったって言って、それを何回も確認されたんですよ。そこで若干うろたえてたんですけど、でも絶対取ったからっていうので、自信持てって言われて、あっそう、取った取った、絶対取ったと思って、その手しか取れていないからどう考えても、そのことに対して自信を持てと言われていたし、だから。」と供述しており、犯人の特定に関する事項につき、必ずしも明確な記憶がないにもかかわらず、後述するように警察官から「自信を持て」などと励まされたり、ある程度、捜査官から誘導や示唆を受けたことも相俟って、意識的か無意識的かはさておき、自己の主張の正当化を図るために、あいまいな記憶があたかも明確な記憶に基づくかのような供述をしていった可能性も小さくない。

そのうえ、A子は、以前にも何回か痴漢の被害に遭ったことがあるところ、犯人を現認して捕まえたものの、痴漢被害に遭っているときの犯人の印象と捕まえた後の印象の違いから、駅員に突き出すか否か躊躇しているすきに、犯人に逃げられてしまった経験があることにかんがみ、必ずしも被害遭遇時のA子の犯人の識別能力に絶大な信用を置くにも無理がある。

以上によると、A子は、被害に遭っている際に明確に犯人の特徴を知覚できておらず、被害直後から特に犯人の特徴に関しては、明確な記憶が有していなかったとも推認できるのであって、A子供述の信用性の判断に際しては、かかる事情を斟酌する必要がある。

(二) 供述の変遷等

もとより、A子が公訴事実記載のわいせつ行為を受けたことに関しては、A子供述は概ね一貫しており、かつその内容に特段不自然なところも見受けられず、その点に関する信用性は十分に認められる。

ところが、本件の核心的部分である被告人を犯人と特定した根拠事実に関する供述に関しては、次のような供述の変遷がみられる。すなわち、被告人と本件強制わいせつの犯人と結びつける根拠となる主な供述は、A子がわいせつ行為を受けている最中に、被告人の着用していたブルゾンコートの一部(そでが紺色、襟の赤色、そでのアルファベットの文字)を目にしたというもの、A子が十三駅で犯人と思って被告人の手をつかんだというものであるが、これらの事項について、捜査及び公判を通じ、著しい変遷が認められる。なお、これ以外にも、豊中駅でA子が乗り込んだ車両(何両目か)、A子付近の乗客の位置、イヤホンをつけ直しの有無、肛門まで差し入れてきたか等についても変遷がみられるが、これらの事項については、被害にあった際には、恐怖感、屈辱感、困惑の気持ち等があり、細部にわたり明確に認識し、記憶に保持することを要求するのは困難であり、多少供述に変遷があるのもやむを得ず、この点の変遷については、あえて不合理なものということはできない。

そこで、被告人と犯人との結びつけに関するA子供述の変遷状況を概観した上で、個別の事項についての信用性を検討することとする。

(1) まず、A子がわいせつ行為をされている最中に見た犯人の服装の特徴に関する供述につき検討する。

ア まず、ブルゾンコートのそでにししゅうしてあるアルファベットの文字を見たなどとする点についてみるに、警察官調書(甲26)では、本件電車がガタンと揺れた後、わいせつ行為がエスカレートし、犯人が手を前に回してきたときに、犯人の左腕を見ると、紺色のビニール地のブルゾンコートに赤い字のアルファベットで何かが書いてあったのが見えたとし、また、平成一二年三月三〇日付の検察官調書(甲31)でも右警察官調書とほぼ同趣旨の供述をしたが、同年四月一一日付の検察官調書(甲32)になると、本件電車がガタンと揺れたときに、犯人の着ているブルゾンコートの左の二の腕の部分に赤のアルファベットの三文字のししゅうが目に入り、とりわけUの文字が見えたとし、更に公判廷においては、主尋問では、いったんこれを維持する供述をしたものの、その後、「ちゃんと見れてなかったんですけど」(主尋問)とか「ガタンと揺れたときに肩が出たんですよ。その時に見えた。」(反対尋問)とか述べて供述が揺れ、最終的には、本件電車がガタンと揺れた時点で、そでにししゅうされているアルファベットの文字を見たかはっきりしないとするが、ブルゾンコートの赤い襟を見たと供述するに至った。

とりわけ、本件電車がガタンとなった時点の視認状況に関する四月一一日付検察官調書(甲32)の供述部分は、位置的にブルゾンコートのそでのアルファベットの文字や襟元が見えるか否かはさておき(この点につき、弁護人作成の写真撮影報告書〈弁19〉によれば、被害者の供述を前提にすれば、見えにくい状況にあるといえるが、本件電車内での被告人とA子の位置関係、それぞれの身長・体格、ブルゾンコートの形状・大きさ・色彩、本件電車の混雑状況等を総合すると、物理的に全く視認することが不可能な状態にあるとはいえないが、A子の供述するとおりに視認することが可能であるかについての判断はひとまず置くこととする。)、この供述内容は、赤い襟元に関する供述を含め、捜査の終盤になって初めて供述されたものであり(四月一一日以前にかかる供述がされた形跡は全くない。)、それまでの捜査段階における供述からは突出したものとなっていること、実質的な捜査担当警察官である吉田裕次は、本件電車が十三駅に止まり、A子が被告人を捕まえて正対して直接見たときに、初めてブルゾンコートの襟が赤いことに気付いたと認識していたこと、前述したようなA子の心理状態等に照らせば、捜査官の誘導や暗示等の影響もあって、A子が本件電車がガタンとなった時点で見ていないものを見たもののように供述した可能性を否定できない。

また、本件電車がガタンと揺れた後、わいせつ行為がエスカレートし、胸を触られるなどしている段階で、ブルゾンコートのそでのアルファベットの文字を見たとする点では、捜査段階においてはほぼ一貫して供述しているが、公判廷においては、主尋問では、捜査段階と同趣旨の供述をしたものの、反対尋問で、その供述内容が不明確なものとなり、最終的な補充尋問に至ると、「目に入らなかった。」などとアルファベットの文字を見たことを明確に否定した。このように、ブルゾンコートのそでのアルファベットの文字や赤い襟元を見たなどとする点では、捜査及び公判を通じて、かなり変遷している。

以上の変遷状況のほか、本件電車が十三駅に到着した後、A子は、被告人を捕まえた際に、被告人と正対し、被告人の着ていたブルゾンコートを直視し、記憶にとどめる機会があったし、また、被害当日になされた実況見分(甲5)の後にも、A子は警察官にブルゾンコートを見せられて、写真撮影がなされており(警察官による供述録取の前と考えられる。)、この時点でもブルゾンコートの特徴について細部にわたり記憶として形成される可能性も大いにありうることも併せ考えると、少なくともブルゾンコートのそでのアルファベットの文字や襟元を見たとするA子の供述については、被害当時の明確な記憶に基づくものとは到底いえず、にわかに信用し難い。

イ もっとも、A子供述は、犯人が着ていた上着のそでの色が紺色であるとする点、生地の材質もシャカシャカとした感じのものであったとする点では、捜査及び公判を通じて一貫しており、その限度において信用性を肯定できる余地も考えられないではなく、この点に関する供述の信用性について、更に検討を加える必要がある。

なるほど、A子が供述する上着の色と材質が、被告人の着用していたブルゾンコートと同じものであるところ、そのブルゾンコートは、生地(シャカシャカした感じのもの)や色彩(紺色の生地であるが、襟の部分が赤で、アルファベットの文字がししゅうされており、全体的に派手な印象を受ける。)からして、ある意味で特徴的なものといえること、このときのわいせつの態様からして、犯人が着ていた上着のそでの部分がA子の視野に入っていた時間も短くないとみられることからして、少なくともこの部分の供述は、核心部分として揺るぎのないものと評価し、A子のかかる視認供述の信用性を肯定することもできるようにも考えられる。

しかしながら、A子の犯人の服装の特徴に関する供述につき仔細に検討するに、そでの色に関する供述以外には信用に値すると考える余地のある供述部分がなく、A子が指輪や傷痕の有無等の犯人の手の特徴につき一切供述していないこと等からすると、A子が胸部を触られるなどしているときに、あえて記憶にとどめるべく、犯人の服装や手等を意図的に観察していたとは認めることはできないところ、前述したとおり、A子は、被告人を十三駅に到着した後に捕まえてから、正対して口論するなどしており、その際に、被告人の、ある意味で特徴的な服装を直視しており、この段階で、被告人の着ていたブルゾンコートの特徴を記憶にとどめ、記憶に混同が生じた可能性も否定できない。すなわち、A子は、特徴的なブルゾンコートを着用していた被告人の手をつかんで捕まえて正対したときに、被告人の服装の特徴を記銘し、自分が被告人を犯人と判断して捕まえたとの思いも相俟って、本件強制わいせつの犯人もこんな服装だったと思い込んだ結果、被害当時の犯人の服装の記憶がはっきりしていなかったにもかかわらず、犯人の服のそでが紺色だったと供述した可能性も考えられる。

これに加え、前述したとおり、A子は、捜査官から「自信を持て」などと励まされていたところ、意図的か無意識的かはさておき、自己の主張の正当化を図るため、自己防衛的に被告人と犯人との結びつけを強固にする供述をしたと考える余地もある。

したがって、犯人の服装のそでの部分が見え、その色が紺色だったとする点についても、一定の信用性は認められるとはいえ、合理的な疑問を差し挟む余地もあり、信用性が十分なものとはいえない。

(2) 次に本件電車が十三駅に到着し、A子が被告人の手をつかんで捕まえたときの状況に関する供述について検討する。

A子は、本件電車が十三駅に到着したとき(本件電車の左側ドアが開き、本件電車の車内でも降車客の存在等により、乗客の流れができ始めつつある状況と推認される。)、いったん犯人とおぼしき者の手をいったんはつかんだものの、すぐに振り払われていることが認められるところ、最初につかんだ時点で、犯人と思った被告人の手がどの位置にあったかに関し、被害にあった当日には、警察官に対し、おしりを触られていた手をつかもうとしたと述べ、被告人の手は、臀部ないし腰部、いずれにしても後方にあったとするが(甲26)、同じ日の実況見分における指示説明(甲5)や検察官に対する供述(甲31)では、胸部を触った後、下げる途中の左手をつかんだとし、つかんだときの位置につき、右実況見分の際には被告人の手が左腰あたりにあったと指示し(前記吉田警察官もA子が犯人の手をつかんだのは、自分の斜め後ろというか腰のあたりにあったものと認識している。)、更に公判廷では、胸部を触られるなどした後、腹部付近にあった手(いずれにしても身体の前部)をつかんだと供述を変えている。なお、検察官は、いったん犯人の手をつかんだとき、その手がどの位置にあったかについて変遷がないと主張するが、警察官調書(甲26)には、胸部を触った後におしりを触ってきたと明確に記載されており、胸部を触った後に手を下げる状態にあったという趣旨には読めず、実況見分調書(甲5)や検察官調書の記載内容とは齟齬しており、また、犯人の手が身体の前部にあったとの公判供述とは明らかに食い違うものといわざるを得ず、この点につき変遷がないとはいえない。

臀部を触っていた犯人の手をつかもうとしたという供述内容が、被害当日の実況見分の際の指示説明を含め、それ以降の検察官に対する供述や公判供述に顕れていないこと、公判では最初につかんだ犯人の手が身体の前部にあったと述べるなど、自己に有利に変遷させていること(犯人の手が身体の前にあれば、振り払われた後に目で追える余地が大きくなるという点でA子に有利となる。)、A子が供述の変遷につき合理的な理由を説明していないこと等に照らすと、A子は、自己の記憶が明確でないにもかかわらず、被告人を犯人と判断して突き出したという自分の判断を正当化させるために自分に有利に供述を変遷させているとも考えられる反面、A子の警察官調書(甲26)の記載内容も具体的かつ詳細であり、これが被害にあったその日のうちで、比較的記憶が鮮明なときに録取されたものであって、同警察官調書における右供述が明らかに事実に反することをうかがわせる事情も認められないから、同警察官調書に記載されている、A子が臀部を触っていた犯人の手をつかんだという事実があった可能性を排斥できず、結局、A子が最初に犯人の手をつかんだとき、その手はA子の臀部ないし腰部(いずれにしても身体の後部)にあり、犯人に振り払われた後、A子がその手を目で追うことは著しく困難であったものと認めざるを得ない(「疑わしきは被告人の利益に」の原則により被告人に有利に認定した。)。

(三) 裏付け証拠の有無

さらに、捜査段階において、A子立会いの実況見分調書(甲5ないし7)が存在し、被害状況につきそれなりに裏付け捜査をした形跡が認められるが、被告人と犯人とを結びつける点に関する事項については十分な見分、裏付け捜査がなされているとはいえず、この点に関するA子供述を裏付ける証拠が必ずしも十分とはいえない。その大きな原因は、A子の記憶があやふやで相当混乱していたために、被告人の犯人性に関する事項についてのA子の供述を固めきれていないことにあったと推察できるが、捜査官においても、A子の供述には犯人の特定に関する核心的な事項に変遷があるにもかかわらず、本件が現行犯逮捕事件ということもあって、被告人を勾留すればいずれ犯行を自白するだろうと安易に考え、A子の自信のない不明確な供述をうのみにし、A子の供述の信用性につき慎重かつ十分な吟味をせず、被告人の犯人性に関する事項を十分に捜査しなかった面も否定できない。

なお、検察官は、実質的な証拠調べを終え、論告・弁論期日の間際になって、警察官に対し実況見分を指示して実施させ、実況見分調書に関する証拠請求(真正立証の請求)を行っている。被告人は、捜査段階から人違いであるなどと真っ向から否認しており、公判の維持は、ひとえにA子供述の信用性いかんにかかることが起訴前から明らかであって、検察官もこれを十分認識していたはずであるところ、かかる実況見分は、当然、捜査段階、あるいは公訴提起後でも相当早い段階で済ませておくべきであったものであるにもかかわらず、第一審の終結間近の段階(実質的な証拠調べを終えていた。)に至って弁護人による反証への対抗(弁護人がA子の供述のとおり視認できるか実験し、その結果が検察官に不利益になるという結果を得たことから、検察官が弁護人の反証に危機感を持ち、右捜査を行ったものというほかない。)として補充的に立証しようとしたものであり、適正かつ迅速な裁判の実施の観点からして、時期に遅れたものとして許容することができない。しかも、検察官の行おうとした補充立証は、A子供述の信用性の判断に関わるものとはいえ、これまでの議論を前提とする限り、A子の供述するとおり視認できたか否かは、A子供述の信用性の肯否の結論を左右するほどの重要な立証ともいうことができず、仮に検察官の補充立証を許さないとしても実体的真実発見を妨げるものではないから、審理不尽(立証を促す義務の不履行)であるとの非難は当たらず、当裁判所が検察官の前記証拠請求を却下したのは、違法ではなく正当な措置であったのはいうまでもない。

(四) その他の問題点

このほかにも、A子の供述の信用性の判断につき、結論を左右するほどの大きな問題とは思われないが、A子は、十三駅に到着する直前A子が胸と臀部を同時に触わられていた旨述べているが、仮に被告人が犯人ならば、デイパックを肩に掛けていたことになるが、その荷物の大きさからすると、大変混雑していた車内でこのような行動をするのは迷惑であるし、被告人とA子との身長差等にかんがみ、実際に実行できるか明確ではないこと、A子は、胸部を触られていたことがあるが、その時間も瞬時のものではなく、犯人の手を比較的観察する時間的余裕があったにもかかわらず、犯人の着用していたとするブルゾンコートの特徴を詳細に述べているのに、犯人の手の特徴(指輪、傷痕の有無等)について全く述べていないこと等の問題点を指摘することができる。

(五) 小括(A子供述から認定できる事実)

以上によると、被告人と犯人とを結びつける事項に関する供述については、疑問を差し挟む余地も小さくなく、高度の信用性を有するものとは到底評価できない。具体的に言えば、捜査段階から一貫していた、犯人着用の衣服のそでが紺色だったなどという点ですら、疑義を差し挟む余地がある上、A子が最初に犯人の手をつかんだときの犯人の手が臀部ないし腰部(身体の後ろ側)にあり、いったん振り払われた犯人の手を目で追うことは著しく困難であったと認めざるを得ないところ、その時点では本件電車のドアが開いて乗降が始まって車内の乗客の流れも生じており、A子の後方にいた人物が入れ替わっていた可能性もあり、A子が二度目につかんだ手(被告人の手)が本件わいせつ行為をした犯人の手であるとは言い切れないのであるから、A子供述により、被告人が本件強制わいせつの犯人である蓋然性があることを認定できるとはいえ、被告人以外の者が犯人である可能性を排斥することもできず、結局のところ、A子供述からは被告人を本件強制わいせつの犯人と認めることはできない。

三  被告人の行動の合理性(被告人の供述の信用性の検討を含む。)

1  供述の要旨

被告人は、捜査及び公判を通じ、自分は犯人ではないと一貫して主張し、自分の取った行動等について次のとおり供述する。

被告人は、本件当日の平成一二年三月二三日午前八時ころ自宅を出発し、春休み中でもあり、時間を気にせず、石橋駅まで景色を眺めながら歩き、石橋駅まで来ると、電車が入ってきたので、いつも乗る急行電車だと思い、飛び乗ったが、次の蛍池駅に停車したので、いつもの急行電車ではないことがわかり、豊中駅でいったん降りていつもの急行電車に乗り換えることにした。

被告人は、同駅で降車し、ホームのベンチに腰掛けてしばらく電車が来るのを待っていたところ、普通電車をやり過ごした後、いつも乗る急行電車(本件電車)が入ってくると、赤色デイパックを右手に持ち、先頭車両の真ん中ドアからまっすぐに乗り込んだ。被告人は、車内が相当混み合っていたこともあり、反転するように進み、ほぼ中央よりの位置(実況見分調書〈甲25〉によると、足の位置が、両側のドアの間にあり、進行方向に向かい右側ドアから左つま先まで約一一〇センチメートル、右つま先まで約一〇〇センチメートル、左側ドアからかかとまで約一一〇センチメートルのところである。)で、進行方向に向かって右側を向き、右手で赤色デイパックを抱えるようにして持ち、左手でつり革をつかんで立っていた。

本件電車が十三駅に到着したとき、同駅で下りる乗客が多く、乗降の邪魔になると考え、豊中駅で乗車した反対側ドア(左側ドア)から外に出るため、反転したところ、A子がリレーでバトンタッチするような感じで手をひらひらさせている光景を目にし、自分の手がA子の手にぶつかり〔なお、このときのA子の状況については、捜査段階では供述していない。〕、振り向いたA子に左手をつかまれた。この時点で初めて、A子の存在を認識した〔被告人は、警察官に対し、弁解録取や勾留請求の前の取調べでは、豊中駅で本件電車に乗ったときからA子の存在に気付いていた旨供述していた(乙1、9)。なお、勾留質問調書(乙11)には、「相手方のような女の人は見たことがあります。」との記載部分があるが、A子の存在に気付いた時期の記載がなく、勾留質問の際に、本件電車が十三駅に到着する以前にA子に気付いていたと供述したかは明らかではない。〕。被告人は、痴漢に間違われたと思い、とっさに「俺じゃない。」などとA子に言ったが、二人で本件電車を降り、ドアを下りたところで言い合いをしたが、その際、「僕は君の隣にいた。」という趣旨のことを言ったかもしれないが自分は覚えていない。その後、周囲に人だかりができ、さらし者になるのが嫌だったことから、人のいないホームの反対側に歩いていったが、逃走を図ったわけではない。

2  信用性等の検討

そこで、被告人の取った行動の合理性や被告人の供述の信用性について検討する。

たしかに、被告人の取った行動の中には、社会通念に照らして、合理性を欠くのではないかと考えられるものも少なくない。すなわち、①被告人が石橋駅で乗った通勤急行電車の方が後続の急行電車(本件電車)よりも梅田駅に早く着くにもかかわらず、豊中駅で降り、通勤急行電車が発車した後の同駅始発の普通電車(座って通勤できる。)をやり過ごし、あえて続発の混雑の激しい急行電車(本件電車)に乗車するのは理解に苦しむところであるが、この点に関する被告人の前記説明も十分納得のいくものとは言い難い、②また、何の身に覚えもない者が他人にいきなり手をつかまれたときには、通常、「何をするのだ。」などと応酬するのが最も自然であると考えられるところ、いきなり被告人がA子に「俺じゃない。」などと申し述べるのは、A子が痴漢にあっていることを知っていることが前提の発言ともみられ、被告人が十三駅で捕まえられるまでA子の存在自体知らなかったとの供述とも矛盾し、被告人がこのような発言をすること自体不合理であるとも考えられる、③さらに、BとA子の各公判供述によれば、被告人とA子が十三駅ホームで口論している際に、被告人がA子に対し「僕、隣にいた人じゃないか。」などと発言していることが認められるところ、これも「俺じゃない」発言と同様、被告人がA子に捕まった以前からA子の存在を認識していたのではないかという疑問がある、④そして、被告人がA子の存在に気がつかなかったと供述を変遷させているが、変遷の合理的理由がないともいえる。⑤A子が手をひらひらさせていたとする点に至っては、いきなり公判で出てきたこと(唐突だが、捜査段階で具体的に録取してもらえなかった可能性がある。)、供述するA子の行動も痴漢を捕まえるときの行動は、劇画的で迫真性に欠け、不自然とみる余地もある、という点を指摘できる。

そして、不審なものとみることが可能な被告人の右行動については、被告人が痴漢であると仮定した場合に、合理的に説明できる面もあり、被告人が痴漢行為をしていないとの供述に全幅の信頼を置くのは困難であるということはできる。

しかしながら、まず、①については、その反面、電車に乗る前に時計をみない行動につき、春休みで出勤時間が通常よりも遅い時間帯に設定されていた上、本件当日、あえてその時間帯よりも早く出勤する必要もなかったとみられるところ、春の暖かい陽気でもあり、時間を忘れて風景を眺めながら歩くこともあながち不自然なことともいえないし、また、石橋駅で通勤急行電車を急行電車と間違った点についても、いつも被告人が乗っていた急行電車と石橋駅で被告人が乗った通勤急行電車の発車時刻が五分しか違わないところ、被告人が同駅の改札に来たとき、同駅のホームに通勤急行電車が入ってきており、急いで乗ろうと思ったこともあり、黄色の電車の表示板が目にとまり、急行電車と勘違いすることも全くあり得ないではない。加えて、被告人の乗った通勤急行電車が次の蛍池駅に止まったことから、いつもの急行電車と違うことを認識し、後発の急行電車(本件電車)に乗り換えたとする点についても、いつも決まった電車で通勤している者の習性、到着予定時刻がわかっているという安心感、豊中駅から梅田駅までの所要時間も急行電車で約一六分間とさほど長くはなく、あえて混雑する電車に乗るのもまだ受忍できること等にかんがみれば、被告人が豊中駅であえて混雑の激しい急行電車に乗り込んだのも、あながち不自然なものと断ずることもできない。

また、②についても、電車の中で他人(女性)に手をつかまれたときに、自分が痴漢やスリに間違われたものと判断し、自分ではない、人違いである旨を相手に伝えるために、とっさに「俺じゃない。」などと発言することも、とっさの出来事に対する反射的言動として全く考えられないことではない。

さらに、③についても、被告人は、進行方向(梅田方向)に向かって右側を向いて左手でつり革をつかんでいた旨供述するところ、被告人の供述を前提とすると、A子の位置は、被告人の左方向である上、被告人が十三駅でいったんホームに出ようと向きを変えたときに、A子に手をつかまれたとするのであるが、その際の位置関係を自ら考えた上、「僕、隣にいた人じゃないか。」という発言は、「僕(は)、(君の)隣に(つり革を持って立って)いた人じゃないか(。だから、君を触れるはずない。)。」などと痴漢をできない状況を説明するために、とっさに思い付きで述べたものと解しうる可能性が皆無とはいえない。

そして、④については、被告人は、当初から捜査官には十三駅でA子に手をつかまれるまでA子の存在を認識できなかったと主張していた旨供述するところ、勾留すれば自白するだろうと考え、十分な裏付け捜査もせず、かつ被告人の弁解内容をなかなか調書化しなかったという捜査官の態度からするならば、十三駅に着いて初めて認識したことを豊中駅で本件電車に乗ったときからわかっていたと巧みに記載した可能性も否定できず、また、被告人においても自分は痴漢をしていない旨の否認調書を作ってもらったことに満足し、取り立てて異議を述べなかったと考える余地もないではない。

最後に、⑤については、瞬間的な出来事であり、被告人がA子の格好を正確に記銘できているか疑問の余地があるが、印象的なことを強調するために劇画的になった面もあり、被告人の右供述は、A子が犯人に手を振り払われ、後ろを振り返る直前、犯人の逃げた手の方向を負うべくA子が手を回したところを被告人が現認したと解する余地もある。

以上のほか、被告人が豊中駅から十三駅までつり革をつかんでいた点については、被告人の立っていた位置からつり革を手に取ることも可能であり、不合理なものではないこと、A子に捕まった者が真犯人であれば、A子を振り切って脱兎のごとく逃走を図ってもしかるべきなのに、被告人は、ホームの人のいない方向に移動した事実があったとはいえ、そのような行動を取っていないことも併せ考えると、被告人の供述には、信用性に疑義のある点も多いが、さりとて、問題となる供述を合理化する事情が全くないとはいえないから、虚偽のものとして排斥することはできず、一定の信用性を肯定せざるを得ない。

四  判断(被告人の犯人性について)

以上を前提に被告人が本件強制わいせつの犯人であるかについて検討する。

なるほど、被告人が本件前後に取った行動が不自然なものという余地があり、これに対する被告人の説明も必ずしも説得的であるもの(疑問を氷解するには至らない。)とはいえず、むしろ、実際に痴漢を行った者が取った行動と仮定すれば流れとして自然に理解できること、被告人の供述に信用性に疑問がある点が散見されること(被告人の本件前後の行動に関する説明、被告人が豊中・十三間の電車内でA子を認識していたかに関する供述、A子に手をつかまれたときの状況等)、A子自身も被告人を本件強制わいせつの犯人と判断し、そのように判断した相応の理由も供述していること等に照らすと、被告人が本件強制わいせつをなしたとの疑いも強い。

しかしながら、被告人と犯人の結びつけに関する唯一の直接証拠であるA子供述の信用性には、犯人の特定という核心的な部分につき疑義があるのは前述したとおりであり、結局、犯人の特定に関するA子の供述に高度の信用性があるとはいえない上、A子がいったん手を振り払われた後、被告人の手をつかんだ時点では、少なくとも本件電車が十三駅に到着し、本件電車の出入口ドアが開閉しており、降車客など車内には乗客の流れが生じていたとみられることにかんがみると、A子がその臀部ないし腰部付近にあった犯人の手をいったんつかみ、すぐに振り払われてA子の視界から消えたほんのわずかの時間の間に犯人が逃走し、被告人が、客の流れに押されていったん電車を下りようと振り返るなどしたときに、A子に手をつかまれた可能性もある。これに加え、不自然・不合理と思われる被告人の行動や供述についても、それなりに合理的な説明を加えるのも全く不可能でなく、被告人の供述を信用できないものとして排斥することも困難である。

そうすると、本件の証拠関係のもとでは、被告人と犯人が人違いである可能性がないと断定するには躊躇を感じるところであり、結局、被告人が本件強制わいせつの犯人であるとするには、なお合理的疑いが残るといわざるを得ない。

五  結論

したがって、被告人が本件強制わいせつ行為をなしたとの証明がないといわざるを得ないので、刑事訴訟法三三六条により、被告人に対し無罪を言い渡すこととし、主文のとおり判決する。

(裁判官 山田耕司)

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